新宿駅東口の高架下には、ホームレスの人たちの寝床、“ダンボールハウス”が並んでいるのですが、今、そのダンボールハウスの一つに、こんな張り紙がはられています。
余白に書き込まれた小さな文字は、写真だと見にくいかもしれません。読み取れた情報、そうでない単語も含めて、下に書き起こしておきます。
<犬の情報>
・オス、11才、チワワ、白と茶色、頭に白ハートマーク、首輪、茶色
<飼い主の情報>
・名前◯◯◯◯、70才、◯◯県◯◯市、クリスチャン、教会、行きます
<読解できなかった単語>
・アナン
ぼくがこの張り紙に気づいたのは、3日前の4月27日の夜でした。
張り紙を見た瞬間、ピンときました。今年の2月ごろより、新宿駅周辺でチワワを飼っているホームレスがいるという噂をちらほら耳にしていたからです。
この人か…と思いながらダンボールの前に座り込むと、中で寝ていた人物がムクっと起き上がりました。
痩せた爺さんでした。張り紙には『70才』と記されていますが、もうちょっと年配に見えました。小顔で、険しさの中に柔らかさがあるような眼差し。ゴッホの自画像のような印象の風貌だと思いました。
「このアナンってのは、どういう意味なんですか?」
ぼくが何となく声をかると、爺さんは特にこちらを警戒することなく、口を開きました。
「それは、アーメン。わたしクリスチャンなんで」
…アーメンかよ。もうちょっと丁寧に書いたらいいのに…。
そのまま会話を続けます。
「犬、いつ、いなくなったんです?」
「今日(4/27)で、9日目だよ」
「どういう状況でいなくなったんです?」
「逃げていたってことはない。それは絶対ない。たぶん、寝てるところを狙ってきたんだな」
んん? というと? 問い返そうとしたところ、頭上をけたたましい音を立てながら電車が通過し始めました。爺さんはそのまましゃべり続けています。あまり人と会話をしていない高齢者特有のそれという感じで。
爺さんのマイペースを遮ることはせず、ぼくは理解に集中することに。すると、物騒な話が飛び出しました。
「連れて行ったのは、たぶん、あの人かあの人だろう、とは思ってる」
「…盗まれたってことですか?」
「でも、たぶん片方のほう」
「片方のほうが、より怪しいと?」
「証拠はないけどね」
会話の流れが悪く、話を掴みにくいのですが、そのうちに何となく状況がわかってきました。
9日前の4月19日、夜9時過ぎ。爺さんはナナと一緒に、ダンボールハウスで寝ていました。
「キャン」という犬の鳴き声がし、眠りからうっすら覚め、まどろんだ意識の状態で少し過ごした後、あれっ、と思います。ナナの姿がないことに気づきました。
どこへ行ったのか? すぐさまナナを探しますが、見つかりません。翌日もその翌日も、それこそ周辺を50回以上探し回りますが、発見できず。
そこで爺さんの頭によぎったのが、以前より、自分の元に頻繁にやってきていた、オバさんのことでした。
そのオバさんが犬を連れていったと思う理由について、爺さんはこう言いました。
「その人は犬好きなんだよ。犬のことばっかり。まず犬だから」
そしてこんなことも。
「でも、たぶん、そのうち戻しにきてくれるんじゃないかと思う」
それはまたなぜ? 断片的に語られる情報をつなぎ合わせると、どうやら、爺さんはオバさんから再三に渡り、ナナを引き取らせてほしいという打診をされていたようでした。
じゃあもし、本当にオバさんが連れ去ったんだとすると…。その動機には?
なるほど、今は誰もが感染に対する意識が高い時期です。その動機には、法律で義務付けられている狂犬病ワクチン接種(年1が必須)や、犬が感染する様々な病気、それこそ『犬コロナウイルス感染症』などを予防するためのワクチン接種があるかもしれません。こんなふうに地べたで寝ている爺さんだし、ちゃんとしていないはず、私がナナを助けてあげなくちゃと――。考えすぎでしょうか。
★
ぼくが「じゃあ、そろそろ行きます」と言って立ち上がると、爺さんはクリスチャンらしく、祈るように両手を合わせ指を絡めて握り、ちょこんと頭を下げました。
――犬の感染症問題、ペットを飼う資格、そして唯一の家族を求めるホームレスの人々の気持ち――
漠然とそんなことを考えながら、ぼくは高架下を後にしました。